プロレタリウス──ローマ帝国の版図において、プローレー(子供)以外に国家に差し出すものを持たない貧民のこと。プロレタリアの語源である。
つまりわれら(って誰?)単身かつアセクシャルの貧民はプロレタリウス─プロレタリア未満なのだ。プレカリアート(不安定なプロレタリアートって同義反復だよなあ)ならまだしも、種の再生産にも貢献しない死滅へと向かう階級、それがわれわれの偽りなき姿だ。一時的な「共にある」ことがわれわれの唯一最大の態様にして武器だが、それは「共に平等に死んでしまう」(=ついには「共にならない」)ことを予め包含している。慌てなくとも平等の時間はやがてくる。
さらにいえば、一皮むけば皆同じであるはずの骸骨・髑髏こそが、この死滅するしかないプロレタリウス未満階級、あるいは階級形成に関与しないミソッカスに共通するただ一つのイコンである。聖プレカリアートだのマリアだの、無意味という贅沢で虚飾された偶像はドブに捨てたがいい。現実には存在しないあるべき自分を妄想せずにはおれない哀しき仲間たちよ、実は骨ばかりの怖るべき屍体がわれわれの「いま・ここ」だ。それ以外に自分はないと知れ。肉はただの飾りだ。そして人の平等とはとどのつまり、死の訪れにしかないということを知れ。その時間の意味を知れば、道は開かれる。
つまりわれわれは死への行進をもって闘いつつ、同時に反転しながら生きるのである。生きて死ぬ。そして階級をなさず消える──それが反資本主義の一つのあり方でもある。資本主義は階級形成を欲するが、そこにこそ利潤の源泉があるからだ。ならば、われわれは階級未然のままであるべきだという地平においての〈生=死〉を追及する。その〈生=死〉への意志は、資本にとって都合のよい競争主義のトライブを形成せず、ただ唯一者として生きるという戦略に転成されうる。この転成において、階級の〈生=死=再生〉のサイクルにおける再生を要求する資本の企図は断たれ、階級の死とともに資本主義は衰滅する。これを資本は階級自滅のテロルと呼ぶことだろう。
われわれは存在するだけですでにテロルなのだ。まいったか。っていうか対テロ戦争とはよくいったもんで、いやでも階級戦争の当事者とされていることにわれわれはとっくのとうに気付いて在るべきである。では気付いて在るのち、どうすればよいのか。
資本はわれわれに「一人前の労働力」として自立して勝手に生きることを要求する。利潤の源泉としての手間のかからない競争の奴隷になってほしいのである。だからこそわれわれは「一人前の労働力」にならなくとも「一人前の生」を要求をし、「社会」に傲然ともたれかかりながらその生を享受する必要がある。テロルたる自己という脱自存在を恥じる必要もなく、能無しでありつつ無駄飯を喰らい続ける碌でなしにあえてなろうとする。資本主義者どもの烙印に抗いつつ「社会」へ手間を認めさせる。手間は本来売買できるものではないし、そうすべきものではない。共有すべきものである。しかし資本は労働を媒介としてすべてを商品化しようと自転運動を続けるため、手間=労働から商品性を引きはがし、生存の商品化を破砕するのがわれらプロレタリウス未満の任務となる。なおかつ能無しを開き直る神経戦も必要になるだろう。しんどい闘いである。だがそれは、資本主義の要諦である能力主義の陣地に楔を打ち込む、現在的な印地合戦なのだ。
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by anarchopunk::noiz
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